源頼朝の墓石の前で思うこと[奥州番外編](岩手県一関市東山町田河津矢ノ森)

源頼朝のお墓の前で思う[奥州番外編]

平泉から東に凡そ10km岩手県一関市東山町田河津字矢森に「源頼朝の墓」があります。
矢の森地区は矢ノ森八景と呼ばれる史跡があり、地域の人々に守られ語り継がれてきました。 これらの八景史跡は、藤原秀衡公や義経公と深い関わりがあるといわれています。 藤原秀衡公ゆかりの金山址、義経公が野駆けした山、九郎森。そして愛用した湯場やなど、八つの景色があり、 東山、萱ノ屋敷の「源頼朝の墓」はその中の一つです。

頼朝の墓
清和源氏の末裔が土着し頼朝公を慕って建てたと伝えられる墓(慕碑)があります。 脇に市指定文化財の大銀杏があります。[矢ノ森史跡保存会]

源頼朝の供養碑
田の萱の佐藤正夫氏の屋敷裏にある。碑には肅源大禅定門大祖国公とあり、右上に征夷大将軍正二位前権大納言右近衛大将源朝臣頼朝郷、 左に正治元年己未正月十三日世壽五十三才と刻まれている。[-東山町の史蹟-東山町公民館]

碑石調査報告書
位置:矢のノ森田ノ萱・碑銘:源頼朝供養碑・高さ巾:1.45m 0.7m・建立年:なし[東山町文化財調査委員会]

岩手県一関市東山町にある矢ノ森八景には、中世に土着した清和源氏の末裔が頼朝を慕って 建立したと伝わる頼朝の墓がある。現在の岩手県まで家臣とともに逃げた頼朝を、和田義盛 が追っ手として討ち取ったとされる。[wikipedia]
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この源頼朝の墓についての表記では、「源頼朝の供養碑」とありますが、、 供養塔はあっても供養碑という言葉は有りません。同じく墓碑はあるが慕碑という日本語もありません。
この墓に関しての意味づけが欲しい地元の人たちの思いが 供養碑、慕碑と記しているのでしょう。これは一切の資料がないためでしょうネ。

平泉を一面の焼き野原にした男が、その地に家臣とともに逃げて来た?
二度も義経を受け入れた平泉、この地で奥州藤原氏を滅ぼした張本人源頼朝を慕う清和源氏の末裔が 墓など建てるのだろうか、物語でも、にわかには信じがたい驚きの話しです。
しかし、ここ奥州では、義経が自刃した義経堂と共に枕を並べる「源頼朝の墓」も驚くに値しないかぁ~、
何せ、お隣り青森の三戸郡新郷村大字戸来にはイエス・キリストの墓もあるのだから。。。
岩手県一関市東山町田河津字矢森

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