舞殿を仰いで静御前を鶴岡八幡宮の境内で想う

舞殿を仰いで静御前を想う

義経の側室静御前は文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡う でしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょ うじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。 この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じる。閏7月29日、 静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子 を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消 息は不明[wikipedia]
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舞殿
鎌倉に送られた静御前は頼朝の命により八幡宮の社殿で舞を命じられます。 立烏帽子、鞘巻の太刀を帯びての白拍子はさしずめ今様の宝塚といった処でしょうか。
鎌倉に連行された時点で静御前は死を覚悟していたでしょう、 彼女にしてみれば、にっくき兄頼朝の前で舞を強要されたことは屈辱的だったに違いありません。
その悔しさが義経を慕う歌を唄わせたのでしょう。しかし 頼朝にとっては自分の前で反逆者義経を慕って別れの歌を唄うとは何事だというわけで、激怒しましたが、 政子のとりなしでお咎めなかったと伝えられています。
その後静は義経の子を生みますが、男子であったため頼朝に殺され失意の中、京都へ戻ります。 以後の足取りは不明のようです。
善かれ悪しかれ源氏兄弟に翻弄された一生でした。
舞殿(下拝殿 1193年造営)は鶴岡八幡宮若宮の回廊跡に建っています。
毎年4月に開催される鎌倉まつりで「静の舞」が奉納されます。
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