「平氏にあらずんば人にあらず」の格言を残す 平清盛

平清盛

平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、 平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。娘の徳子を高倉天皇に入内させ 「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』[1])と言われる時代を築いた(平氏政権)。 平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇 を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による 平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。 [wikipedia]
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平清盛 清盛の仏心が頭をもたげたか、一代で頂点に上り詰めた自信、慢心が招いた結果か 清盛は平治の乱で敗れた源実朝の子、頼朝を殺さず、伊豆の蛭ケ小島に流刑。 同じく常盤の三人の子の一人、牛若も生命を長らえさせ後に、京の鞍馬寺に入れる。
彼らふたりが後に平氏を倒す勢力の主役になるとは、この時には思いも依らなかったに違いない。
平氏といえば武士にもかかわらず、公家=貴族の生活に堕ちた武士で、 日本史上、悪役のイメージ。
質実剛健な源氏に政権を奪われた時代遅れの存在?
迷走した遷都移転。やったと云えば神戸港の整備ぐらい?
それだけでは無いような気がするけど。。
死にあたって清盛は「いかなる追善供養もいらぬ。頼朝の首を墓前に供えよ」 と遺言したという。おそらくその脳裏には、「平治の昔、頼朝を殺しておけばよかった」 という思いがよぎったに違いない。
助けてやったのに、裏切られた悔しさは、正直死んでも死にきれなかったに違いないよな。。。
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