源義経、立何から何まで常識破りの天才武将

源義経

源義経
源九郎義経は、父は頼朝と同じ左馬頭源実朝で母は宮中に仕える雑仕女だった常盤。 名の通り9番目の男子として源の九郎義経となる。 平治の乱(1159年)で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 (平泉では16歳から頼朝の挙兵まで6年間過ごします) 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、 最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い 、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。 秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。 [wikipedia]
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源義経 経は元暦2年(1185年)5月兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地、満福寺で留められ、 兄には会えず京都に戻ります。
義経の最大の不幸は兄頼朝の立場を理解出来なかった。
合戦には天才的な武将であっても、組織の中で育った訳でもなく、 政治に関しては無知だったのでしょう。 純朴な東北は平泉で青年期を過ごした源義経にとって考え方が万事甘く純粋だった。
兄頼朝の置かれている立場など考えても見なかったろう。 朝廷からの官位を安々と受けたり、壇ノ浦の合戦で取り戻した三種の神器の鏡・勾玉を即、後白河法皇に返すなどは 甘ちゃんと誹りを受けても仕方のない行為です。
更に悲劇は、弁慶はじめ雑多な郎党から、それを諭すことができる近習がいなかった事でしょう。 残念ながら頼朝には北条時政、徳川家康には本田正信のような、知略、謀略の知将が傍らにいなかった。
話がそれますが、平家を滅亡に導いた義経、彼の戦い方は独創的な戦術の勝利でした。
一の谷合戦では、無警戒な山側からの不意打ちの奇襲。
屋島の戦いでは、摂津の国から馬を船に乗せ一気に攻め入り、正面の海からではなく、 意表と就く地つづきの南側から衝きました。そのスピードと船での戦いを想定していた平氏は驚き敗走。
壇ノ浦の戦いではルール違反の漕ぎ手を矢で殺すことを指示。これも常識破りの戦法でした。
なにより、大将自ら先陣を切って駆け抜けることなどは、この時代彼が初めてであり 何から何まで常識破りの天才武将でした。
他方天才と云えば信長。桶狭間の戦いではやはり信長も同じことしたけれど、義経の戦法を勉強していたのかな?
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