鎌倉幕府の初代征夷大将軍 源頼朝

源頼朝

源頼朝
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。 河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。 伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。 弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に 守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年 (1192年)に征夷大将軍に任じられた。 これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、 幕府などによる武家政権は王政復古の大号令・江戸開城まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる [wikipedia]
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源 頼朝は1147年父義朝、熱田大宮司藤原季範の娘を母として誕生 異母兄2人がいましたが母が正室である頼朝が嫡子となりました。 12歳まで生まれ育った処は以外にも京都です。 (それは下級ながら朝廷にも仕え貴族社会の空気にも触れたのが後の義経との大きな違い となったのでしょうね)
平治の乱では父、兄二人は命を落とすも平清盛の継母・池禅尼の嘆願により伊豆の蛭ケ小島 に流刑となりました。
その後、北条時政は一兵も持っていなかった孤児、流罪人の頼朝を支えます。 次第に源氏の嫡子の御旗に多くの武将が集まります。 そしてその後の弟義経の奇跡的な一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦での 勝利から日本最初の武家政権「鎌倉幕府」を樹立します。 (頼朝を日本一幸運な男と云う作家もいます)
彼は簡単には人を信じず、猜疑心が強く、冷静な判断を身に着けた非常な性格だったようです。
こうした頼朝のイメージを見事に表現しているのがお馴染みの京都神護寺の源頼朝 像(上記)です。 この著名な肖像画はむしろ私たちの頼朝イメージを縛り続けてきたのかもしれません。 (しかし最近頼朝の風貌を伝えるものとして甲府市の甲斐善光寺座像が本物? こちらは冷徹というより柔和な貴族顔。どちらが頼朝に近いのでしょう?)
合わせて判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、 頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くないのは、行いが冷酷、 無慈悲な男として伝えられているからなのでしょうね。。。
頼朝は戦上手ではありませんでしたが、武家政権を京ではなく鎌倉に開いたことでも判るとおり、 確固たる政権プラン、政治家としての力量は人並みはずれて優れていたようですナ。。。
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